冷たい春の雨が全身をくまなく濡らし、肌に貼りつく制服が気持ち悪い。
走れば跳ねる飛沫がズボンの裾と靴を容赦なく汚していく。
午後からの降水確率は90%なのだと、朝学校に行く前に教えてもらい、わざわざ傘まで持たせてもらった。
それなのに何故、枢木スザクはずぶ濡れで走っているかと言えば、至極単純な事である。
肝心の傘を誰かに盗まれてしまったから。
朝から天気予報など見ていなかったという生徒が他人の傘をこれ幸いとして盗んでいくのはよくある話だ。
だから気にする事もない。
あの傘が、セシルが持たせてくれた妙にカラフルなあの傘が、自分の傘だと誰が知るものか。
名誉ブリタニア人だから盗まれた、なんて後ろ向きな思考をすればきっと自分の親友は『馬鹿か』と言うだろう。
雨は人を感傷的な気分にさせるものだ。
通常より2割くらいマイナス思考な頭を切り替えるようにスザクは頭を振った。

急いで軍に戻って着替えよう。でないと風邪をひいてしまう。
速度を上げようとしたその時、ポケットの中で携帯が着信を告げる。
走りながらポケットを弄っていると、手が濡れていた所為かついつい携帯が手から滑り落ちる。

―――ああ、きっと傷が入ってしまった。
カシャンと小さな音を立てて落ちたそれを拾おうと屈む。



そして視界に入ったものは、草叢に埋れるようにして倒れている女の姿。










REDEMPTION
Act.1 雨に濡れる捨て











女が身に纏っていた服は既に服としての役割を果たしていない。
乱暴に引き裂かれた衣類から覗く素肌。
顔にはりついている長い黒髪。
絹のように滑らかな漆黒の髪は、彼女が日本人―――イレブンである事を物語っている。

何をされたのか考えずともわかってしまう光景。
否、解りたくもないのに否応なく理解させられる。
雨の中裸同然の格好で置き去りにされているイレブンの女。

そういった事が裏では行われているというのは勿論知っていた。
軍に所属している身分なのだから当然その手の下衆な噂話を耳にする事も少なくは無い。
けれどもこうして目の当たりにしたのは初めてだ。


腸が煮えくり返るとは、こういう感情なのか。

体中がふつふつと熱くなっていく。
怒りが胸の奥底からせり上がってくる。
それはスザクの勘に過ぎないのかもしれないが、今回は彼の勘はきっと外れてはいないだろう。
何故イレブンだからといってこんなにも惨い仕打ちを受けなければならないのだろうか。
自分より少しばかり年上―――といってもまだ二十歳を超えたばかりに見える女。
痩せた四肢は弱々しく白い肌は冷たい雨に打たれ死人のように血の色が失せていた。

許せない。素直に思った。
既に役割を無くしてしまった上着ではあるが、無いよりは幾分かましだろう。
慌てて制服の上着を脱ぐと包むようにその女にかけてやる。
ぐったりとした身体を抱き上げるとその軽さに驚いた。
胸の奥が締め付けられるような鈍い痛みが、雨の冷たさや濡れたシャツの不快感を吹き飛ばす。

軍へ連れて行くのは少々抵抗もあるのだが。
今スザクが思いつく場所といえばあの場所くらいしかない。
それにあそこなら、きっと。
何せ自分に朝からご丁寧に傘まで持たせてくれるような優しい人がいるのだ。


大丈夫だと、信じたかった。
絶望―――したくなかった。














軍の建物内部に入ってもスザクは速度を落とす事なく全力疾走を続けた。
警護の兵士や他の人間に白い目で見られたがそんなのは気にもならない。
転がり込むようにしていつものランスロット開発部へと駆け込む。
ドアの開く音に反応してセシルが振り返り、お馴染みの柔らかな微笑みを向けようとしたが、途中でその笑みが凍りつく。


「お帰りなさい、スザク君…って、えぇ?!」
「すみませんセシルさん!出来れば、この人をお風呂に入れてあげて欲しいんですが…っ!」
「え、あ、お風呂?あ、そうよね、びしょ濡れだもの…って、スザク君こそ!風邪ひいちゃうわ!」
「僕の事は良いから!とにかくこの子を!!」
「―――分かったわ。スザク君もきちんと着替えておくのよ。こっちは任せて良いから」
「助かります、セシルさん。ありがとう…」


力強く頷いてくれたセシルを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
ここまで全力で走ってきた疲労と、胸の奥にあった微かな不安、それから行き場の無い怒り。
それらの全てが和らいで途端にどっと疲れが押し寄せてくる。
この場に座り込みそうになるのを何とか堪え、スザクは言いつけ通りに着替えに向かおうとした。



「おかえり、スザク君」
「あ、ロイドさん…ただいま戻りました」
「まぁ〜た厄介事を見つけたみたいだねぇ。何ていうか、キミもトラブルには事欠かないねぇ」
「厄介だなんて僕は思ってませんよ」


微苦笑のような表情を浮かべる。
正直、内心ムッときたがそれを上司に見せる訳にもいかない。
厄介だなんて言い方は彼女が可哀想だ。
被害者は彼女の方であって、巻き込まれたのも彼女の方で、彼女には非はないのに。

―――なんて、事情を知りもしないで思ってしまうのは。
自分勝手な解釈だろうか。


「彼女、イレブンでしょお?」
「―――いけませんか」
「いーや。僕はそういうの、どうでもいいし。でもさ、気をつけた方が良いじゃないのかい?」



キミは、とても不安定な立場なんだからさ。



付け足すように放たれた言葉。
声音こそ柔らかではあるが、ロイドの表情は鋭く尖っていた。

セシルの様に心配しているのではないと、はっきり分かる。
彼は自分の愛すべきランスロットのパーツを失う事を快く思わないだけなのだ。




「貴方に迷惑はかけません」
「そぉ?なら好きにすると良い。ここに住ませるのも、捨ててくるのもキミの自由だ。
ああでも、スザク君が拾ってきたんだからちゃーんとスザク君が面倒見るんだよ」


まるで犬猫を拾ってきたみたいな軽快さで笑う。
心が広いというか、この興味の無い物に対する適当さはいっそ天晴れとも言えるであろう。


「優しいんだね、スザク君は」
「…そういうんじゃないですよ」
「じゃあ、哀れみかい?」


濡れた髪から一滴、滑り落ちる水滴。
ハッとなってロイドを見上げる。
相変わらずの柔和な微笑みを貼り付けて、青白いディスプレイの光に照らされる横顔。
どうしてこの人はそうやって人でなしの代表のような言葉を平気で吐いて、そして。
人の弱い部分を簡単に突いてくるんだろうか。

哀れみなんて無いと言えば嘘になる。
確かに自分は塵みたいに捨てられていた女の姿を見て同情に近い思いを抱いた。
それを否定する事は出来ない。


「……僕は、ただ人が死ぬのを見たくないだけです」
「博愛主義だねぇ。ねぇ、そうやって自分の足場を削っていくのは楽しいかい?
ピンチになればなる程燃えちゃうタイプなのかな?あはぁ、スザク君って実はかなりマゾヒストかい?」
「何と言われようと、僕は彼女を助けたかった…それだけです」
「ふぅん、それって同じイレブンだから?それともあの子に恋でもしちゃった?」
「ロイドさん!」
「あははははっ、ごめんごめん!いや〜楽しくってつい、ねぇ」
「もう…勘弁して下さいよ」



本当に、痛い所を突く。

剥き出しの肌と、隠す事の出来ない女性特有の膨らみ。
年頃の男子が思い出すにはあまりに刺激的だった姿。
今度彼女に会う時、自分は冷静でいられるだろうか。
この男が余計な事さえ言わなければこんなに困惑する事も無かっただろうに。
少し恨めしく思えて視線だけでロイドを見たけれど。
その時はもう既に興味を無くしていたらしく一心不乱にキーボードを叩いていた。
もしも彼女の目が覚めてもきっとロイドは一言も喋らないだろう。
その方が自分にとっても彼女にとっても良いのだと、解りきっているから問題はないのだが。


同情されるのは決して喜ばしい事ではないけれど。
こうも無関心なのは如何なものだろうか。
それを決めるのはスザクでは無いにせよ、もしも自分だったら少しばかり寂しいとは思う。



「なんて…ロイドさんに優しさを求めちゃ駄目だよな」



酷い言い草ではあるが事実だから仕方ない。
彼は誰に対しても優しくなんてない。
けれどだからといって嫌いだとも思わない。








―――人が誰しも優しさを求めているとは限らないのだ。

誰もが皆、優しいだけではなく、またそれを快くも思わない事を。
理解していた筈なのに、どうして。
彼女がそれを求めていると思ってしまったんだろう。

哀れみすら、悦びとして受け入れてしまう人間なんて、いないと思っていた。
同情は心地良いと。優しさよりも哀れみを。
揺ぎ無い絶対理論。
決して崩れる事なく己の内にあったそれは。


手の中から滑り落ちる砂のように、ちっぽけで。


それでは彼女を救えないと。
理解する事さえ今のスザクには出来なかった。