この世に生を受けて二十数年
二十年という年月が長いのか短いのか。
それは個人の考え方によって様々であろうが、個人からすればとても長いものだと感じられた。
その長い人生の中で彼女は人より多くの事を経験し学んできたと素直に賞賛出来るであろう。
二十代でランスロットの研究に携わり、尚且つ副主任として毎日バリバリ働く彼女は若い研究者から常に羨望の眼差しを目一杯浴びている。
穏やかで聡明、容姿端麗。
正に三拍子揃って文句無しの
故に特派のみならず軍の中では高嶺の華的存在である。
きっと並大抵の男では彼女の目には止まらないだろう、手を出すだけ無謀というものだ。
といった先入観のおかげで本人に直接言い寄る男はまるでいない。

それが災いとしたのか、彼女はこの歳になっても恋人はおろか、恋愛らしい恋愛を一度も経験した事が無いのであった。





「ロイドさんは恋した事ってありますか?」
「ん〜?ないよぉ」
「…即答ですか」
「だってないものはないからしょーがいないでしょ」
「威張ってどうするんですか、寂しい人ですね」
「別にぃ。興味ないからさ、ランスロット以外には」


質問する相手を間違ったか。
今更遅い、セシル辺りに聞けば良かったものを。何故この男に聞いたのか。
気まぐれとは時として恐ろしいものである。
しかも間が悪かったのか、ロイドはひどく退屈していたらしい。
愉快そうに目を細めて椅子をわざとらしくギィギィ鳴らしながらこちらを振り向く。


「恋でもしたかい、君」
「…邪推しないで下さい。ただの好奇心による質問ですから」
「キミが僕に質問するなんて珍しいだろう?余程悩んでるみたいだねぇ」


悩んでいるかと聞かれれば悩んでいる。
恋という感情がどんなものか解らないのだ。
好奇心から、というのも嘘ではないが、半分は違う。

最近どうも自分の心が不安定で、それがある特定の人物に対して特に不安定。
今までこういった経験は皆無。
相手が異性である訳だからもしやこれが俗に言う恋愛感情なのだろうか、と思った次第である。
悩んでいるか、と言われればNOとは言い難い。


「良いねぇ、恋。君も女の子だねぇ〜。てっきり機械弄りしか興味ないのかと思ってたよ、あはははは」
「心外ですね、ロイドさんと一緒にしないで下さい」
「うーん、それは否定出来ないねえ」


否定しないのか。
機械弄りにしか興味がないとあっさり認めた三十路一歩手前の上司は、それを恥じるでもなく気にするでもなく晴れやかに笑っている。
人間こうはなりたくないものだ、とは内心溜息を吐く。



「すみません、忘れて下さい。失言でした」
「なぁんでだい?」
「ロイドさんはこういった話題に無関心みたいですし、上司に相談する事柄でもありませんから」
「つれないなぁ〜。僕と君の仲でしょお?遠慮しないで良いよ」
「親しくなった覚えはありませんので勘違いしないでくれると助かります」
「ありゃ。キミといいセシル君といい、意地っ張りだなあ」
「意地っ張りで結構です」

「良いのかい?

―――スザク君もさ、素直な子の方が好みかもしれないよ?」



「…ッ、な……!」




しまった、自分。なんて愚かな反応を。

たかが名前を聞いたくらいで、頬を染めてどもるなんてそんな阿呆な。
どこの乙女だ、良い歳して恥ずかしい。
これじゃあ100人中99人が見ても理解出来る。理解出来ない1人は張本人くらいなものだ。

ニヤリと笑うロイド。眼鏡の奥の瞳が無邪気に細められ、口角が片方だけ吊り上げられる。
極上に機嫌が良い時の彼の笑顔である。

自分の迂闊さも信じられないが、こういった事に疎いであろうと思われていたロイドがいきなり確信に触れたのも衝撃的だ。
いくらなんでもまさかバレていたとは…いや、バレるような事はしていなかった筈なのに。
この男が部下の動向に目を光らせているとは到底思えない。
そんな細やかな気配りが出来るとは思っていないし、また期待もしていないのだから。

では何故?ただ鎌をかけただけ?
だとしたらあまりに愚かすぎる。



「あ、正解でしょ?その反応」
「……………」
「沈黙は肯定って事にしちゃうけど、良いのかなぁ〜?」
「……………お好きにどうぞ。今更貴方に何を言っても無駄でしょう」
「あははははっ!お〜めでとぉ〜!大正解だよぉ君」


大袈裟に両手を広げるロイドに向かい“ありがとうございます”、と心にも無い礼をぞんざいな口調で吐き捨てる。


「安心して良いよ、多分僕以外は気付いてないから」
「…どうしてロイドさんは気付いたんですか?」
「だって僕はキミの上司だからねえ」


さも当然と言わんばかりの口振り。
いつ貴方が私達に上司らしい事をしてくれたのか問い詰めてやりたいが疲れるだけだろうから止めておく。
きっと誰もが皆この男に“上司らしさ”など求めていない。
恐らく求めるのは“ただ黙って大人しく機械でも弄っていろ”の一点のみだろう。

にしても。まさか人に気付かれるとは思っていなかった。


――――自分がスザクに恋―――かどうかは定かではないけれど、してると気付くとは。



「…まだまだ私も甘いですね。貴方に悟られるなんて」
「それって褒め言葉?」
「勿論です」



純粋に褒めているのだから、安心して欲しい。
まぐれかもしれないが気付ける洞察力は素直に賞賛に値するのだから。


「…私自身、どうなのか解らないんです。自分の事が解らないなんて、それこそ馬鹿馬鹿しいですが」


恋って何だ?
追求すれば追及する程、哲学的な内容になりそうな言葉。
子供でも知っていそうな単純な事なのに今の自分には皆目理解出来ない難題だ。

例えば枢木スザクを見ていると安心するのにドキドキしたり、自然と彼を目で追っていたり、何でもない話をするだけで楽しいと思ってしまったりするのが恋なんですか?
そう訊ねるとロイドが呆れたような顔をする。彼のこんな表情は珍しい。




「あのさぁ、キミそれ真面目に言ってるわけ?」
「失敬な。私はいつだって大真面目です」
「だとしたら大概に頭ワルイんだねぇ」
「………そんな事、初めて言われました」


人並み程度にはあるの自尊心は甚く傷つけられた。
よもやこの自分が“頭が悪い”などと呼ばれる日が来るとは。人生とは予測がつかないものである。


「間違いなく、恋でしょ。それ」


きっぱりと言い捨てられる。
ああ、やはりそうだったのか。
ここ数ヶ月間胸の奥に燻っていた謎の感情の正体がようやく解ってすっきりした筈なのにどことなく落ち着かない。
それはきっと自分が枢木スザクに恋をしているという事実を素直に受け入れられないからだろう。
スザクに恋しているのを認めたくないわけではなく、ただ自分みたいな女が恋をするというのが不思議なだけ。
ロイド程酷くはないものの、自分もあまり異性に興味は無い。
どちらかといえばランスロットの方が気がかりである。
そんな自分が、恋。
何だか笑ってしまう。


「そうですか…恋、かぁ…」


ぼんやりと呟く。

恋。

何となく予想してはいたものの、いざ現実に向き合うと少しばかり動揺してしまう。
おまけに初めて恋した相手は自分より年下の学生で、おまけに部下。
禁忌的と言われればそうかもしれない関係は、悪い事をしているみたいで何故かドキドキする。


「ありがとうございます、ロイドさん。すっきりしました」


今度は本当に、心からの礼を口にする。


「で、どうするの」
「どう…とは?」
「スザク君に告白するのかい?」

「…ッ!!こ、告白…」
「そりゃそーでしょお。普通するもんじゃない〜?」
「それはっ…そうですが……私は、別に………」


告白だなんて考えもしなかった。
この想いを伝えたいだなんて微塵も考えていなかった。
ただ不確定要素を自分の内から消し去りたいだけであって、恋心を認識したからどう、とかはまるでない。
ああそうか、私は枢木スザクに恋をしているんだな。
それだけ理解さえしていれば良かったのである。

寧ろ告白なんかしてしまったらスザクに迷惑だろうから言えない。
この想いを知って欲しくも無い。
上司と部下、それ以上の関係性を求めていない、求めてはいけない。
自分と違って彼は若く、まだ学生なのだ。
同じ年頃の女の子と恋をするのが真っ当な道だと言える。
こんな機械弄りだけが取り得みたいな(と本人は思っている)女から好きだなんて言われるのは可哀想だ。


「すれば良いじゃない、告白。スザク君もまんざらじゃないかもよ」
「勝手な事を言わないで下さい!」
「言ったでしょ?僕は君達の上司だよぉ、解ってるさ」
「何が貴方に解ると言うんですか」

「スザク君がキミを好きって事…って言ったら、どーするぅ?」


わざと真実は直接伝えない。
いつもこうやって試すように質問をする。
相変わらず正確が捻じ曲がった男だ。



「―――ありえません」
「本当だよぉ」
「だとしても無理です」
「なぁんで?」
「私は、人に告白なんかした事もないし、された事もありません。
興味も無いからどうすれば良いのかも解りません。
恋すら知らなかった私が彼に自分の想いをまともに伝えられる筈が無いんですよ」


年上としてそれはどうだろう。些か情けなさすぎやしないか。
しかも、ロイドの言う通りだとは限らない。
変な期待を抱いて自分が傷つくのは嫌だ。誰だって傷つくのは嫌だろうに。
わざわざ自分から傷を受けに行く程マゾヒストではない。

それに、私は。




「スザク君には、幸せになって欲しいんです」



どうか、幸せに。

貴方の好きになる人が貴方を好きでいてくれますように。
願わくばその相手は私みたいな女ではなく、優しく愛らしく、貴方の心を癒してくれる人でありますように。
貴方を幸せにしてくれる人と結ばれて欲しいのです。

好きな人の幸せを願うこの想いも、恋と呼んでも良いでしょう?

私では彼を幸せに出来ない。自信が無いから。



「私みたいな女に好きになられたって迷惑でしょうから」



だから、この恋心は隠し通す。
隠すだけで殺したりはしたくない、少しの我侭は許して欲しい。
思いの他弱々しく揺れる声音。
これが恋をした女の弱さなのか、哂ってしまう。



「折角の初恋なのに、君はそれで良いのかい?」
「良いんです」
「スザク君がキミを好きだと言っても?」
「もしそうだとしても、嬉しいけど…私は、きっと彼を拒むでしょう」
「好きなのに?」
「はい」



私は、恋すら知らない女です。
人の愛し方だって解らない。
こんな自分と一緒にいて、もしも彼が苦しむ事になってしまったら。
そう考えると怖くて仕方無いのです。
臆病者だと貴方は哂うでしょうか?
けれど怖いのです。この想いが彼の重荷になる事も、私の所為で彼に余計な負担をかける事も。
きっと私は彼の抱える寂しい程に密やかな苦しみを癒せないから。


「損な性格してるなあ、キミって。素直に恋を楽しめば良いのにぃ」
「私は見てるだけで良いんです」
「あれれ、それって本当〜?良い子ぶっちゃってぇ。ただ幻滅されたくないだけじゃないのかい?」
「………」
「この歳になって初恋だなんて、恋もした事ないなんて、おまけに処女でしょお?
恥ずかしいよねぇ、年下の彼氏だもんねぇ、余裕見せたいよねえ。
上司の威厳だって見せたいのにさぁ、あはははっ!情けない自分は見せたくないんだろう、ねぇねぇ?」
「……仰る通りですよ」


ニコリと微笑んで頷く。
途端にロイドの顔が面白くなさそうに歪められる。
わざと挑発して喰いかかって来るのを待っていたのだろうが、お生憎様。
貴方の思い通りにはさせてあげません。

―――どうせ彼の言葉は的を得ているのだから。
否定する理由等無い。



「わっかんないなぁ…恋は盲目って言うのに、君って変わってるよねぇ」
「ロイドさんにだけは言われたくないですね」
「あーぁ、僕も恋でもしようかなぁ」
「それは無理でしょう」


大人しくランスロットを愛でていてくれた方が世の為人の為というものですから。
と付け足せば、不機嫌になるかと思いきや。
ロイドは逆に楽しそうに笑っていて。





「んー、僕さぁもしかするとキミに恋してるのかもね」
「はぁっ?!」
「だってさぁ、他の子だったらどうでも良いのに君の事は気になっちゃってさー。
ほら、今だってこうして色々とちょっかい出しちゃってるでしょ?無意識にだよ?これってさ、恋じゃないの?」
「違います、それは断じて恋じゃありません」
「なんで言い切れるんだい?恋が何かも解らなかったキミに言い切れる程の自信は無いでしょ」
「いいえ。ロイドさんのそれは恋ではなく、そうですね」



ただ、お気に入りの玩具で遊ぶ子供のように。
飽きるまで散々弄り倒して、飽きたらまるで最初からなかったみたいに忘れて、捨ててしまう。
それを残酷だとも知らず、揺蕩う波紋の如く自然にふわりと去っていくのでしょう。
恋だなんて笑わせてくれる。片腹痛いとはこの事か。


「残念だなぁ。どうせなら、僕はキミに恋をしたかったよ」
「光栄ですが、謹んで辞退させて頂きます。玩具に成り下がる気はありませんから」
「大切にしてあげるのにぃ」
「私は大切な玩具の在り処などとっくに忘れてしまいました。自分がそんな目にあうのは御免ですので」
「あはははっ!君みたいに退屈しないんだったら、ずーっと大事にするよ?僕」
「既に恋じゃないですよ、ロイドさん」
「あれ?そうだっけ、あはははごめんごめーん」



朗らかに笑うロイドを見て、どこかは安心した。

低空飛行を競い合うのは不本意ではあるが、如何せん人間とは弱い生き物で、自分よりも下の人間を見ると安心するものである。
良かった、この男は私以上に恋というものを知らない。

少しだけ、彼を―――スザクを好きな自分を恥じずにいられる気がした。



「色々と話を聴いて下さってありがとうございました。…勉強になりました」


素直に笑うと、は軽く頭を下げて部屋を出て行く。
その後姿には迷いもなく清々しい程に背筋がピンと伸びていて凛々しかった。
力強さを感じるの背を眺めながらロイドはずるずると椅子の背もたれに全体重を乗せる。
長く深い溜息を吐き出しながら天井を仰ぐ。





「あーぁ。…本気、だったのになぁ」




ごめんよ、君。
僕は嘘を吐いたんだ。

ランスロットにしか興味が無い、なんて言ったけど本当はキミにも興味津々なんだよ。
もしかすると、じゃなくて僕はキミに恋をしているんだ。
恋をしたかった、なんて過去形ではなく、恋をしている―――現在進行形なんだよ。


だけど、この想いは伝えないでおくよ。

それはがスザクに自分は不釣合いだとか、幸せになって欲しいからとか。
そういった優しさからくる感情ではない。
ただ、恋に悩んだ彼女の表情だとか、自分を頼ってくるその脆さが愛しいからであって。
決して彼女の為ではない。自分の為なのだ。


「いつ気付くかなぁ、僕がキミに恋してるって。んふふ〜、楽しみだなぁ」


その時キミはどんな顔をするんだろうね?
信じられないって顔するのかな?
それとも頬を赤らめてくれる?
冗談だろうって笑い飛ばす?

ああなんて、楽しみなんだろう。
だから内緒だよ。
がスザクに恋心を伝えないのと同じように。
ロイドもへの恋心をひたすらに隠して。








遅すぎる初恋はゆっくりとその芽を伸ばし。

―――――けれどもその芽は決して花開く事はなく。影に咲く、恋の華。


















寂寞の初恋