「どーして君は泣いてるんだい?」 よくもそんな台詞をぬけぬけと吐けたものだ。 止まらない涙は、隠せぬ嗚咽は、一体誰が原因なのかこの男は知っているのだろうか? きっと知っているのだろう。そうでなければこんな愉快そうな顔をして笑っている筈がない。 分かっているから、こんなにも楽しそうに無邪気に笑っているんだ。 まるで子供みたいに。 ちっぽけな虫を捕まえて、その手足をもぎ取り嗤う子供のように、残酷に鮮やかに微笑む口許と瞳。 無邪気と残酷。 相反する2つの顔をこの男は併せ持っていて。 性質の悪い男だ。 楽しそうに笑うように歌うように。 囁く言葉が胸に突き刺さって抜けない。赤い血の代わりに透明な滴が零れ落ちて頬を濡らす。 皮肉な言葉で言い返してやりたいのに止まらない嗚咽のせいで上手く言葉が紡げない。 自分の弱さと不甲斐無さが悔しくて、堪らずまた涙が溢れてくる。 こんなの、目の前の男を喜ばせるだけだというのに。 案の定嬉しそうに微笑んでいる彼。ひどくご満悦の様子だ。 人の気も知らないで。 呑気なものだ。 これだからお子様は、嫌になる。 「もしかして、僕が結婚するって言ったからかなぁ?」 ニヤリと薄く微笑む口許が厭らしい。 何故わざわざ疑問系で聞くのだろうか、どうせ答えなんか分かりきっているくせに。 寧ろ自分の中で勝手に私の答えを決め付けて、自己完結しているくせに。 分かっているなら聞かないで。 たったそれだけの短い言葉すら言えない。怒鳴ってやりたいのに声が震えて、咽喉の奥が乾ききって、何も言えない。 不甲斐無さに目眩がする。立っていることさえままならない。 いっそこのまま地べたに座り込んで、抑えることなく大声をあげて泣き叫べたならどんなにか楽だろうに。 年齢とプライド、それから自分の中の常識的な感情がそれを許さなくて。 押し潰されそうになりながらも必死に耐えた。 「ねぇねぇ、くーん?返事してくれなーいかい?」 腰を屈めたかと思えば、ロイドの顔が目の前にあって、じっと見つめられて。 軽く意識が吹っ飛びそうになるのを何とか堪えたのに、冷たい細い指が耳朶に触れて。 確信犯の悪戯は、亀裂だらけの心をいとも容易く崩壊させた。 「―――っ、うるさいっ!」 乾いた音が室内に児玉する。 無意識に手が動いて彼の頬をしたたかに打ちつけた。 五月蝿い五月蝿い五月蝿い。分かっているなら聞くな鬱陶しい。 理解しているくせにきちんと言葉で言ってあげないと、態度で示してあげないと駄目なのか、このお子様め。 子供特有の無邪気さと残酷さが心を蝕む。 触れて欲しくない部分に、無断で触れて。 入り込んで欲しくない場所に、無遠慮に踏み込んで。 なんて横暴。なんて勝手。それらを全て平気な顔でやってしまうその図々しさ。 子供はなんて憎たらしい生物なんだろう、小さくて可愛げがない分、この男は最低だ。 きっと今の自分の顔は涙でぐしゃぐしゃで、怒りで更にぐしゃぐしゃになってとても見られたものじゃないだろう。 なのに平手打ちを喰らって赤く腫れた頬を擦る目の前の男はどこか恍惚とした表情でこちらを見つめていて。 サディストなのかマゾヒストなのかはっきりしろって言ってやりたい。 けれども例によって例の如く、皮肉の一つすら今の自分は言えないのであった。 悲しくなんてない 傷ついてなんかない 貴方のことなんかちっとも好きじゃない だからさっさと私の視界から消え去って下さい 声も届かない遠い場所に行って下さい 死ねとは言わないから私の目の届かない所へ早く行って下さい これだけ言えれば百点満点だ。 だけど悲しいかな現実は最初の一言も出せないのであった。 情けないのは重々承知の上で私はその場に座り込んだ。 両手で顔を覆ってすすり泣く。夜中に見たらさぞ怖い光景であろう。 けれどもそうでもしなければやっていられない。 ああそうか、私はこんなにもこの男を愛していたのか。 カッコ悪いったらありゃしない。 「くん、泣かないで」 泣いているのは誰の所為だ、誰の。 しかもこの状況でその台詞か。全くもって空気というものが読めない男である。 何も言えないくせに不思議とクリアな頭の中で悪態を吐く。 「ごめんね?ごめんねくん」 よしよし。 呟きながら頭を撫でられる。 意外にも優しい手つきが安心出来て、とても心地よい。 子供に子供扱いされるのは癪だけれども形振り構わず泣いているだけ、私も子供ってことだろうか。 何度も何度も“ごめんね”を繰り返す彼。 解っているのだろうか?きっと解っていないんだろうなぁ。 自分がの発言がどれだけ私を自己嫌悪させたか、解っていないんだろうなぁ。 貴方みたいな人を好きになってしまった自分を、こんなにみっともない姿を晒すくらい貴方を好きになってしまった事を。 私がどれだけ後悔しているか、情けなく思っているか。 きっと彼は解っていない。 理解した上で謝っているのなら、大したナルシズムだ。 頭を撫でる手が髪を弄る。 その手で、私の手を取る。 今ここで顔を見られるのは拙い。だから必死で抵抗するけれど。 貧弱そうに見えて一応男なだけはあるらしく、力では勝てなかった。 「可愛い顔が台無しだよ」 似合わない台詞を吐く様がおかしくって、けれども笑えなくて。ほんの少しだけ涙は止まった気がするけれど。 手首をしっかりと握り締めたまま、真剣なロイドの顔が近付いてきて。 何がどうなって何をしたいのかさっぱり解らないままどんどん近付いてきて。 遂に距離がゼロになった時。 彼の唇が私の目尻に押し付けられていた。 これは所謂キスというものか。 「…や、っ…!」 嫌だ、と言いたかったのか、それとも。やめて、と言いたかったのか。 それすら定かではないが彼の行為を拒んだのは事実。 逃げようと身を捩るけれどそれを決してロイドは許そうとしない。手首を握る手に力が込められて痛みを生む。 きっと痣になってしまうんだろうなぁ。 「聞いてくれるかい、くん」 真面目な顔と、声。 こんなにも真面目な彼は見た事がない。 迫力に負けてしまったのか、私は抵抗するのを止めて、おとなしく次の言葉を待った。 まるで死刑判決を待つみたいに生きた心地がしない。 私にキスしたその唇で、今度はどんな追い討ちをかけるっていうの? 「結婚なんて嘘だよって言ったら…キミはどうする?」 「なっ、…!」 「キミに構って欲しくて、ちょっと嘘吐いちゃっただけだったら……どーうするぅ?」 にっこりと微笑んで首を傾げる。 もしかすると私は騙されてしまったんだろうか? 退屈だったお子様は構って欲しくてちょっと嘘を吐いてみただけだったのだろうか? だとすれば私の涙は一体何だったのだろうか。 いや待てそもそも嘘っていうのはどういうことだ。 どうしてそんな嘘を吐く必要がある。 構って欲しいってどういう事だ。 私に構って欲しいって、それって私と遊びたいって事だと解釈しても良いのかな? だとすれば……… 一気に押し寄せる疑問と推測で頭の中は氾濫気味。 パンクしそうな頭を整理するのにいっぱいいっぱいで、涙なんて知らない内に止まっていた。 顔をしかめて思案していると。 一際明るい笑顔を浮かべたロイド。 「なぁんちゃってぇ〜!ざぁーんねんでしたぁ!あはっ本気にしちゃったねぇくーん」 ポカン。 とりあえず今の私に擬音をつけるならばこれしかないし、これが一番相応しいだろう。 開いた口が塞がらないとは正にこういう状態を言うのだろうか。 悪戯が大成功した子供は嬉しそうに声を上げて笑っている。 「なぁんだくんってばそんなに僕の事が好きだったのかい?」 ごめんねぇ、気付かなくって。 いっそ殺してやろうか。 無邪気を装って、子供のフリして、私を苛めてそんなに楽しいか、この変態め。 その変態を好きになった自分も同属か? 極め付けには。 唖然としながら見上げた男の笑顔を、無意識ながらに、やっぱり好きだって思ってしまうのは。 無意識ながらにときめいてしまう自分は、変態を通り越して狂人なんだろうか。 小さくない子供はちっとも可愛くなくて。 子供のフリをして人を弄って遊ぶような大人が可愛い筈もなくて。 けれども向けられた、心の底から楽しそうな笑顔が。 やっぱり好きです。 ああ不甲斐無い。 止まった筈の涙が、また堰を切ったかのように溢れ出した。 恐らく一晩この涙は止まらないんだろうなぁ。なんて。 妙にクリアな頭の中で、呟いた。 上司はお子様プレイがお好き。 |